
Presented by Lamp

「Special Thanks」
11/29,30に京都で行われたStill,lifeの第3回目となるグループ展「Still,life」京都のWebアーカイブ展を2日間限定で公開します。
各作家によるステートメントや展示の感想を掲載していますのではじめての方だけでなく実際にギャラリーで作品をみていただいた方ももう一度楽しめるようになっています。
是非ご高覧いただければと思います。
Room103
大林京太郎
第3回目となる『Still,life展』
これまでは自分という存在が表に出ない「外の世界」を撮った写真を展示してきました。
今回は、生きる=生活というド直球に「内の世界」をテーマに写真を撮りました。
展示会場にはアセビという木を飾っていたのですが、花言葉は「ふたりで旅をしよう」です。
ふたりで行った場所、過ごした空間、その人と生活の中で撮った写真はどんな絶景や名所よりもキラキラ輝いていて、僕の生活には欠かせないものです。

Ko.
今回はMVを担当しました。
前回は自然の写真が多く生に直結しやすいものをセレクトしたので今回は街のスナップにしました。
前回のMVが自然、静的、縦構図だったのに対し今回は都市風景、動的、横構図でセンターの光を枯葉と重ねた表現にしています。
(アキモトさん考察)
毎日多くの人が目まぐるしく行き来し記憶にも残らないような毎日が過ぎ去っていく。
そんな中で自身もまた仕事に追われ心が枯れつつあった。
日課のコンビニまで煙草を吸いに散歩していた際に前述の光景が目に止まり漠然と生を実感した瞬間を収めた1枚。
私にとってStill,lifeは多くの人が見過ごしているような日常の小さなしあわせを救い集め自身を肯定するための大切な行為

小豆
作品解説
【Still,lifeの定義】
前提として、人間の薄皮一枚剥いだ心の中身なんて、あえて曝さない限り目には見えないものだと思っている。
そして、あえて曝すことが可能な行為が、音楽であり、言葉であり、写真だ、と思っている。
貴方の目の前に今もし私が見えているとして、それは巧妙に社会性の仮面を被った、【わたしの形をした輪郭】であって、本質ではない。
今回で3回目になるStill,life展だが、一貫して私の思う「―まだ、生きている」は自身の内面に向けたものでしかない。
だって、私の知覚する貴方も、世界も、本当に実在し、生きているのか私には確かめようがないのだから。私が目を閉じている間も世界が存在するなんて
どうやって確かめればよいのか、私にはわからない。
だから、生きている確証の持てる唯一を表現するほかない。
【身体の定義】
頭 回路、思考や記憶を司るもの。病床。
首/喉 叫び
胴体 内臓の詰め物。血が通い、心が通い、衝動の宿る場所
脚 私を遠くへ運ぶためにある。躍動。動き。衝動の実行機能。
手 外界に向けて伸ばすもの。架け橋。指先には愛が宿るのだと思う。


アキモト
左上の写真は「生」の写真、生きているものはみな白光していて、そして絶え間なく変わり動き続けるのでカメラなどでは捉えられない。
また、動いている瞬間はそのものの本質より輝いて見える事がある。
今回の写真も千葉の工場風景が私にはヨーロッパとか、どこか遠くの海越しの街に見える。
右下の写真は「死」の写真、「生」とは対照的に重く、暗く、冷たく苦しい。
でもその中にも救済のような微かな光、炎があって、精魂尽きて燃え尽きる人もいれば、一度は灰になっても転生する人もいる。
死の炎は終わらせるし、始めに戻る事もできる。
これも千葉の工場風景。
生と死の写真の間で揺れ動くのは、それに翻弄される「生命」の写真 左下はもう飛べなくなったアサギマダラの写真。
10月の寒い日に、もう翅は動かず歩いてでも生きたくて花に向かう。(右隣の花の写真へ)
でもその先に、延長線上にあるのは「死」の写真。
どんなにもがいて生きようとも虫も人も獣も魚もいずれは死に向かう。
右上は巣立ちしてすぐの鳩の写真。
巣立った鳩はやがて高く高く空へと羽ばたいて、好きに羽が赴くまま、自分の行きたい場所に飛んで、高く高く自分の「生」を謳歌する。
風が吹いて草木が揺れ、月の満ち欠けで波ができ、鳥が飛んで雲が流れ、蝶が花の近くで息絶えて、そしてその環の中であなたは生きている。
いつか等しく死が訪れようとも、それでも身の回りに溢れた光を胸にこれからも生きていて欲しいと思います。

悠
僕は中学〜高校までの6年間のうち、4年半を学校に行けず過ごしました。
夢も奪われ、普通からかけ離れた生活を送ると精神が壊れていき、醜い感情に支配されてどんどん自分自身が悪いものに侵食されていく感覚が今でも忘れられません。
成長というものを知ることもなく、心が傷を負い、置いていかれたまま大人にならざるを得なかった。
時間は止まってくれないし未来を考えなくてはならず、悩んだ末に写真を始めました。
才能なんてものは一切なく苦しいこともありますが、優しい出会いもあり初めて世界に関われているという実感が生まれました。
そしてSNSにも写真を上げるようになると、ありがたいことに見てくださる方がいてくれて。
その中には、僕と同じように心の傷を負ったり、学校に行けない人もいることを知りました。
同じ思いをしてる人が僕の写真を見て、今日を、明日を生きようと思ってもらえるような写真を撮りたいと、そんな風に考えるようになりました。
今回の写真たちは全て地元で撮影しました。
身近な場所にもふとした輝きは転がっていて、その小さな積み重ねが幸せに繋がったりします。
真っ暗な部屋の中にほんの一筋の光が差すような、そんな写真を伝えることが出来たら嬉しいです。
一緒に生きよう。って伝えられるように、僕はまだ生きています。

iti
ファインダーを覗くと、目の前の世界がそっと動きはじめる。
目と心がひらかれたときに浮かびあがる、小さな世界の気配がある。
この作品では、私が感じた小さな世界を通して、光から生まれ、地へ還り、まためぐっていく命の循環に、静かに身を寄せている。
光が生み、影が包み、静けさのなかで形を変えながら、世界は絶えず巡り、動き続けている。
シャッターが時を止めるたび、そこにあった気配が浮かびあがり、
そのひとすじは、私の内側だけに留まらず、作品を通して誰かの心へそっと渡っていく。
その時間の手触りが、あなたの心にも少しでも触れてくれたなら、嬉しく思います。

32
吸って、吐いて。
絶え間なく続く、ささやかな循環。
何気ない日々の中でも、
それは確かに「まだ生きている」と告げる。
写真は、その一呼吸の手触りを
そっと、すくいあげる。
(左手側から)
〈境界に触れる〉
塩水に浸された葉は、
すでに役目を終えたはずの命。
それでも水面に浮かぶその姿は、
生から死へとわたる境界の上で
なお、小さく留まっている。
〈あわいを歩む〉
空と大地をくっきりと分ける線。
そのわずかな高低差の上を、
人の影が揺れながら進んでいく。
どちらにも属さない場所で、
生も死も選ばずただ歩き続ける。
〈向こうの気配〉
焦点を失った光の粒と、
本来在りえないはずのゴースト。
輪郭を持たない灯りは、
まだ視ることを許されない世界を
こちらへとかすかに滲ませる。

宵ノ入
誰かが亡くなったとき、花を手向けるのは何故?














































