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Presented by Lamp

「Special Thanks」

11/29,30に京都で行われたStill,lifeの第3回目となるグループ展「Still,life」京都のWebアーカイブ展を2日間限定で公開します。

各作家によるステートメントや展示の感想を掲載していますのではじめての方だけでなく実際にギャラリーで作品をみていただいた方ももう一度楽しめるようになっています。
是非ご高覧いただければと思います。

大林京太郎

@kyo_photos

Ko.(こう)

@Gallery5660

小豆 azuki

@79mg_photo

Yoino ili/宵ノ入

@ilipics

じふ

@morojiff

アキモト

@akimoto_0109

​tommy

@meeeetsu

​秋

@chi_aki_jpg

宮前 真也

@miyamae_photo

​iti

@iti_1_photos

Room105

Lamp

 

写真行為とは、刻印のようなものやろか。

 

片目をつぶって、必死になって、側から見たら、中腰とか、なんか不安定な妙な体勢で。

ええオトナが、まっくろいごっつい機械に、顔の半分を押し付けて。

何のために?

 

この形のない今を、そう言うてる間にもうすでに「今ではなくなった過去」を、

そこに、あるいはここに結びつけるために。

カメラを手にしているとき、
町や光景や、瞬間や、わたしや、もしかしてあなたが。

そこが、それ自体が、なにかを表現しているように感じている。


伝えようと、訴えようと、分かってもらおうとしているかのように。ヒッシに。

だから、撮る。獲る。摂る。受け取る。

繋げるために。どこに?

留め置くために。ここに。


そこに激情はなく、超常もなく、あるいは平凡で、なにより冗長なフツウばかりだ。

それで良いと思うし、それが良いと思う。


今回の展示に並べた写真たちは、前二回と違って概念性をあえて避け、
この1年で撮られた数万のデジタルデータから選んだ。

ドラマティックさは皆無で、エキセントリックとは無縁の日常。

されど愛おしい。そう言わせてほしい、そういう、それは刻印だ。

誰もにあって、かつてにも確実に存在したであろう、そういう平凡に、

あえて(傲慢に)定点をつける行為が、撮影というアクションなのだと定義するなら。

 

そういうものに、どうしても向き合ってみたくなったのは、
写真行為自体が、もしかして、その名もなき瞬間たちへの、賛歌だと感じたから。

 

——-

 

わたしや、あなたがいたこの平凡に、”Still,life”と名前をつけようか。

 

また何度でも眺めて、なんべんでもはじめられるように。



​tommy

 

 

展示『Still, life』に寄せて

 

テーマを掲げた展示には、出展者と鑑賞者それぞれの解釈が生まれます。その揺らぎも作品を前にする楽しさだと感じています。

今回の展示と写真集では、表面が似ているもの、内側が響き合うもの、まったく違うもの──それらを対として並べています。

組み合わせの理由に明確な答えはありません。自由に読み解いていただければ嬉しく思います。

以下の文章は『Still, life』に対する、ひとつの視点として記しました。

Still life(静物画)とはひとつの画面に必要な要素をそっと配置し、光影や構成、象徴性によって一枚をつくり上げる営みです。

『Still, life』を「まだ、生きている」と読み替えたとき、自分の中に積み重なった記憶や経験を、静物画のように配置していく行為と重なりました。

古い記憶を前に置いたり、奥にしまい込んだり。

手前にあるものは言葉や感情として表に出やすく、そうして“いまの自分”という一枚が形づくられていきます。

そんな記憶の中には光の当たらない位置にあっても「まだ、生きている」ものがあります。

誰かの写真を見た時に忘れていた光景を思い出す。

 

同時に、付随していた感情を呼び起こすこともある。 そんな写真は言葉よりも時に広く、深く共感を得る事が出来ると思っています。

人には異なる価値観や理念があり、似ている部分や違う部分もあります。

常に持っていないものに憧れ、羨望や失望もあります。

それぞれ違うことは誰もが当たり前と分かっている。

けれど、面と向かうと簡単に見失ってしまい、人は人と割り切る事もある。

写真やあらゆる作品には伝えたいことがあり、そこには作者の考え方のようなものが浮かび上がります。

それが自分の中でまだ生きている記憶に触れた時、 全く違うと思っていた人に、自分と少し似た価値観があると気が付く。 全て違うと思っている人と分かり合うことは難しいけれど、同じかもしれない部分を見つけることは出来る。

そして最も重要なのは、片方からかける橋ではなく、お互いが手を伸ばすということかもしれません。

言葉では難しくても、写真でそれができたらと願っています。





 



宮前真也

 

 

〈Statement / still, life〉

綿毛は、指先に触れた瞬間にも かすかに震えながら、 風に乗っていこうとする命。 スカートをそっと持ち上げた彼女の姿は、 静かに羽ばたく前の、 ひとつの呼吸のようでした。 その小さな動きのなかに、 自分自身の呼吸や、ゆっくりとした成長を 重ねられた気がしています。

止まっているように見えても、 まだ生きていて、 少しずつ前へ進んでいる。

その感覚を「still, life」という言葉に込めて、 この2枚を選びました。



じふ

 

 

未明、海。

 

自他の境界線が分からなくなるくらいの闇の中で。

 

冷たい空気の中、静かに息をすると、

胸の奥が震えていることがわかる。

 

そんな心をゆっくり溶かすように、

闇に淡い光が差し込みはじめる。

 

感光。

 

あいまいだったものたちが、少しずつ輪郭を持ち始める。

 

ああ、大丈夫なんだ。

 

光を信じ、レンズを向けて。

今の心の重さも、先に見えた希望も、まとめて掬いあげていく。

 

そうしてわたしは今日も、

「生きていること」を静かに確かめている。



Sho.T

 

 

寄り添う親子の姿や、早朝の静けさ、海辺のやわらかな空気など、日々のなかにそっと触れるぬくもりを写した写真を選びました。

どの瞬間にも、言葉にできない温かさや、確かな息づかいのようなものが宿っていると感じています。

展示を通して、写真の向こう側にある空気や、心が少し緩むような時間を受け取っていただけていたら嬉しいです。



​柊太

 

 

Still,life

→ 自分が生きる上で大事にしている「余白」で、生きているを表現

ステートメント

日常の中にそっと残る余白、胸を満たすささやかな幸せ、かけがえのない瞬間――

そのすべては、目には見えなくとも確かに"生きている"

僕の考える「Still,life」は、止まった景色の奥に流れる時間と、微かな揺らぎを纏った空気

感を写し取る展示です。

4 枚の写真はそれぞれ異なる心の揺れを描きながらも、並ぶこと

で互いに響き合い、観る者の内側で新しい物語を生むことを意図しています。

余計な説明や強い演出を無くし、観る者自身の感覚が入り込む余地を残すこと。

目に映る静けさの裏に息づくかすかな生命の手ざわりを感じてもらうこと。写真はそのための器で

あり、時間の一瞬を閉じ込めながら、観る人と共に新しい瞬間を生み出す舞台です。

止まって見えるものの中に確かに流れるものがある――

 

僕の考える「Still,life」は、その小さな生の余韻を届ける展示です。

 

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